(長いっす!)
いま新作を作るなら!?というハナシ。
(とはいえ、あたりまえじゃん!ていう内容でもあります)
いま、わたしを含めて正調忠臣蔵の新作制作を心から待ち望んでる人というのは、もともと長い間、忠臣蔵が好きな人がほとんどだと思う。
忠臣蔵の存在を意識してからこっち、映画や演芸、歌舞伎など、引きも切らないリリースで無意識に何度か内容をさらって「好き」を触媒していったクチだ。
で、最初のキッカケが映画館で見た長谷川一夫版であれ、テレビの里見浩太朗版であれ、リリースされたそのバックグラウンドは「昭和」である。
つまり、いまでは通用しないインモラルやデリカシーの無さが通用していた時代(要出典)=いまとは違う時代だ。
その昭和時代は、忠臣蔵の世界線の中で描かれる常識や価値観が素直に受け入れられるコンディションだった。
嫌いなやつを「死ねばいい」と思ったらおおやけにクチにしても咎められない時代だったのである。
そして言うまでもなくお茶の間では「時代劇」がおなじみで、忠臣蔵に素直になれる「いろんな」免疫があった。
いまやいのちご大切の時代。昨日も「可哀想だから蚊を殺さないで」なんて書き込みがSNSで拡散されていたのを見かけた。温血動物は決して食べない主義なんて今や珍しくない。いわば民間の生類憐れみの時代。
忠臣蔵の国民的な人気が「時代の条件」の上で成り立っていたのだとすれば、かつてのノリそのままのサイズで令和の現代社会に「正調モノ」を持ってこようとしても、ご時世的にズレがあるのは土台からして無理筋くさい。
とはいえ、忠臣蔵は江戸時代から昭和まで時代をとび越えて、実際に長い間人気のあった(要出典)コンテンツなのだから、ファンとしてはあらがいたくもなる。令和でもイケるはずだ!と。
しかしである!明治維新や敗戦でもまっすぐだった日本人の価値観は、バブル景気によって見事に捻じ曲げられた…とわたしは思う。
実際、平成以降ガクンと人気が落ちている。
日本開闢以来珍しい(要出典)?「ガマンしなくていい多様化の時代」の到来は、我慢のデパート忠臣蔵のドラマの意義を根底から揺るがす。
実際に、バブル期に大井武蔵野館(当時人気の名画座)の館長はキネマ旬報の誌上インタビューで「忠臣蔵で客が呼べなくなった」と言ってるし、バブル崩壊後(’94年)に、東宝と松竹とTBSが腕っこきの映画監督で忠臣蔵をやってどれも当たらなかった。(特にTBSのは面白かったのに)
(※なぜバブルでダメになったかは長くなるので端折るが、要はC調ウィルス(造語)の蔓延である。C調が正調をダメにした)
バブル以降、あんなに江戸時代から日本人みんなの心に響いていた正調「忠臣蔵」の新作がいまリリースされないことや、なにか新作があったとしても斜め読みだったり、かつそれらがパッとしないことにヤキモキし、ことあるごとにあたしはギャーギャー熱を吹きつづけてまいりました。
世間では忠臣蔵はやれオワコンだ、若い人にウケないだ、よく言われる中で、なぜそう堂々と主張ができたかと言えば、いま(忠臣蔵が廃れたと感じる平成以降)、メディアで流れてる流行りものの中には、忠臣蔵のエッセンスが入ってる事が多いと感じていたからだ。
ふりかえれば、たとえばかつてのAKB48の出世話にも半沢直樹にも、ワンピースにもソレが見て取れる。
「だから忠臣蔵は絶対にウケる!」
というのが平成時代の持論だった。
が、いま、ちょっと思い直している。
映画やお芝居に誰か(特にノンケ)を誘うと、一緒に見ているヒトが「どう思うだろう」を意識してしまう。自分のおすすめの場合はなおさらだ。
ノンケのユカさんと忠臣蔵を見ていたら、エンパシーによるものなのかなにかわからないが、ラストシーンでヨボヨボの市川中車(吉良上野介)が炭小屋から引きずり出されたときに、このヒトがこれから討たれるのか…と思うとじゃっかんいままでと違う違和感を感じたのだ。
このじいさんを殺せば済むってことなのか?こんな脆弱なラスボスってどうなんだ??
いろんな「?」だ。
(ちなみにユカさんはわたしと若い頃に浅草東宝のオールナイトへよく通った、東宝ファンである)
見終わってふたりで話をしてみると、ユカさんから聴けた感想がいちいち新鮮だった。
すなわち
まずこの作品は、笑ってヘラヘラ見ていられる作品とも違うので(東宝作品は他社に比べておかしみが散りばめられて娯楽的要素がふんだんだがそれでも、である)、とにかく「ちゃんと見なくちゃ」という緊張感が徹頭徹尾にある。
そこで語られるのは命がけで信念を貫き通す人たちの生きざまだ。
それを理解するには江戸時代の武士の価値観や哲学をいちいち予想してそれを受け入れなくてはいけない。
そして、ランニングタイムが長い。
つまり、よい作品であることはわかるが出演者全員(またコレが多いときてる)がむずかしい顔をして走り抜けるこの物語は「なかなかくたびれる」というようなことを概略言っていた(ニュアンスはあたしがここで要約してるフィルターでじゃっかん違っちゃってるかもだが)。
くり返しになりますが、古参の忠臣蔵好き(赤穂事件の研究者さんではなく、ここはあくまでお茶の間のハナシ)は、昭和をバックグラウンドに色んな新作のリリースとともに生きているので、いつの間にか忠臣蔵世界を徐々に理解できていたのではないか。
そこには気に入った作品もあれば苦言を呈したくなる作品もあった。無意識に「見比べ」をして「アレよりコレがいいねえ」と楽しめるストックが脳内にたまっていった。
無学なわたしの母親でさえ、そうしてこれまで忠臣蔵を認識しているのである。
ロングセラーの「忠臣蔵」の楽しみ方の重要な要素のひとつは「見比べ」なのだ。
だから後輩諸君やユカさんに「花の巻雪の巻」だけ急に一作品「見て!」「どう思う?」といって押し付けても、いきなり路上教習みたいにハードルが高いのかもしれない。
マキノ雅弘監督に言わせれば「決定版はない」というんだから(あたしもそう思う)、どの映画でこれを試しても似たような結果になると思う。(NETの「大忠臣蔵」('71 三船敏郎)ならイケるかなぁ。でも連ドラだからランニングタイムが2000時間以上じゃお手軽ではない。)
ユカさんの意見を聴いたら、脳内に、これまでわたしが言われた(&講演やテレビで見た)過去のいろんな人の意見が蘇ってきて、彼らの言いたいことが雲が晴れたようにリアルにキャッチできた気がした。
「忠臣蔵はまじめすぎる」と言っていたライターさん。
「もはや終身雇用の時代ではないですからねえ」と言ってた学者。
「松の廊下の動機が希薄」と言っていた紀里谷和明監督。
「どんな理由でも人殺しは良くないと思う」と言っていた朝比奈彩さん。
「企画会議に「忠臣蔵」はあがるけどタイミングが…」と言っていたNHKさん。
「最後、おじいさんがかわいそう過ぎると若いスタッフに言われた」と言ってた能村庸一プロデューサー。
聴いた当座は腑に落ちなかったアレコレが、今ならその全部がうっすらリアルに理解できる気がしたのだ。
それほど自分のマインドが最近の風潮にあってきてる気がする。(学校で非常勤なんてやってると毎年あたらしい若い衆と知り合うので、歩調を合わせてるうちにいいかげんに自分の中で昭和が遠くなっていくのか?)
ともかく、
忠臣蔵の根底に流れるものに日本人のDNA琴線に触れるものがあっても、元禄時代を舞台にした時代劇のビジュアルでパッケージをととのえて大衆に提供するにはもう、大胆な脚色でもないかぎりダイレクトには通用しない時代になっちゃっているのである。
これは特別なことを言ってるのではなく、そもそも歌舞伎も講談も、先人の作品をマイナーチェンジしながら、または大胆に壊しながら継承してきた。だからまた大胆で有益なアレンジが必要だと思うのであります。(斜め読みやパロディではなく、あくまで妥当なアレンジです)
新アレンジはたとえば、パワハラだけでなく、吉良と赤穂浅野の深い因縁(新説?)が必要かと。
「死ねばいい」と言っちゃいけない時代に「死ねばいい」と観客に思わせるジジイの表現はむずかしいし、イベント中のパワハラぐらいで「あのジジイ殺していい」というテンションには、なかなか及ばない民度になっちゃったから。日本人は。
そうか…
だから「ChuSinGura46+1」('13)は吉良にバケモノを憑依させたのか。だから「タイムスリップ!堀部安兵衛」('14)は吉良を逃したのか。だから「決算!忠臣蔵」('19)では討ち入りシーンを描かなかったのか…。(以上いずれもアレンジではなく改編モノ)
作品の良し悪しはともかく、最近の作品はそこんところを留意していたのだなあ。
新作で、死んでもかまわないと思わせるジジイの表現や、肯定的な復讐殺人を令和以降にリファインして持ってくるには、&真正面から正調モノをやった上で観客に共感させるには、その「殺伐」とした世界観を雄弁に、かつ強引に作品に落とし込んで観客に提示するクリエーターの腕前が必要があり、そうした作業はなみたいていな脚本家や監督では無理。
じつは今から12年ほど前のブログに、「脚本三谷幸喜で監督中島哲也で忠臣蔵やってもらいたい」と言ったが、やっぱりこのご両所への思いは未だに熱い。
不幸のどん底の人生をバラ色の画面で彩ることのできる中島監督。歴史も古典芸能も精通している三谷さん。
このお二方とも、キャスティングと来たら絶妙以外の何物でもなく、彼らが忠臣蔵をやるとなったらどの登場人物を誰に配役するのか楽しみで仕方がない。
ただ、中島監督は脚本もやる人だし、三谷先生も監督やる人だし、たぶんこのタッグは相容れないかも…と思うから、それぞれ各自が1本ずつ作ってくれればいいなと(ナニサマだ)、そこんところだけは、いまはちょっと違う意見。
で、最後に申し上げますと…
忠臣蔵好きとノンケの温度差はどこに象徴されるかといえば、「討ち入りはテロだ」と言われたときの古参の目くじらの立て方だ。
自分の大好きなものをダイっきらいなものに例えられることほど腹が立つことはないが、感情的なことはともかく、「テロだ」と言われる風潮や時代を読み取り、そう言ってる人の気持ちやコンセプトに同調できないようでは、たぶんなにもリサーチできないし、「またブームにしたい」という気持ちは叶わないと思う。
あと
時代にあったアレンジが必要、みたいな話をしたが、いっぽうでいま「荒川十太夫」や「俵星玄蕃」が歌舞伎で講談とコラボをして古典の良さをそのまま伝えている公演があるが、こういうのも現代に無難なリリースの仕方かと思った。
忠臣蔵や義士伝の加工された登場人物は、財産であり、いわばその人物たちの活躍こそが忠臣蔵の魅力であるのは間違いない。
歌舞伎と講談は紛れもなく江戸時代から忠臣蔵義士伝の人気を伝えてきた立役者。
それが、人気キャラのスピンオフをコツコツと上演し続けていくのは、明るい将来につながると思っております。
そう。
たぶん現世でのもっとも受け入れてもらいやすい新作の構成は、同床異夢のキャラそれぞれのイデオロギーを描いて、最終的にアベンジャーズみたいに「勢ぞろい」して討ち入りにマッシュアップされていくのがベストだと思います。(「峠の群像」はソレに近かったかと)。
…という結論。
現実は現実として、新作(正調モノ)を待ち望む気持ちに変わりはありません!
<附言>
忠臣蔵物語の、なにをもって感動に至ったのか、その人の趣味によってオススメも変わる。
よく言われる「忠義」みたいなことで言うと、上記の東宝作品より別の作品がいいかも。
忠臣蔵は各時代にいろんな視点で描かれてるので、東宝でハマらなかった人が東映でハマる可能性がおおいにある。
結局、未だに決定版がないのだから、見比べないと埒が明かない。
<附附言>
『ゴジラ-1.0』見ましたが、上記おふたかたとはまたちがうやさしいテイストの山崎貴監督の説得力も、いまの大衆にピッタンコのような!?
その「力技」は絶大で、戦後風景をMP抜きで、いわんや総司令部まで放射能火炎で吹き飛ばしてもGHQが動かない(マッカーサーが住んでるのに!?)という前代未聞の設定も「アリ」にして、その上で傑作の評価を国内外から受けているんだから、うってつけかと存じました。
<附附附言>
春日太一先生に言わせりゃ、忠臣蔵世界の武士の価値観なんぞは'50年代にすでにみんなツッコミどころとして気づいてた(講演ではマキノ光雄の談話を紹介してらした)。それを素晴らしいオールスターやセットや腕っこきの監督が名作にしてリリースしてた。各社アニバーサリーに会社の力や勢いを主張するかのように作ってきた。
忠臣蔵が作られなくなったのは、内容のつっこみどころや視聴者&鑑賞者のセンスではなく、会社が作れなくなった…というのがご説。
これも、ご尤もかと存じました。