小説
怪異談 忠臣蔵
〜ゾンビが出てくるやつ〜
(連載 最終回)
この作品はフィクションです。文中に出てくる名称と、実在の個人名、団体名とは一切関係がありません。
※文中の「のろま」とは、ゾンビのことでございます。
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見事本懐を遂げた赤穂浅野の浪士たちは、内匠頭の墓前に首級を供えると、揃って愛宕下の大目付宅へ自首をした。
報告を聞いた老中方一同は、そもそも先の赤穂浅野の処分を残酷と思っていたから、同情をもって評定に及ぶ。
まずは義党四十六人を四組に分けて、沙汰があるまで、大名屋敷にお預けとした。
(討ち入った四十七士のうち、一名が大石内蔵助の命によって、党中を離れて使者の役目に立っている。)
安兵衛は三田の伊予松山藩・松平隠岐守定直侯の中屋敷に、大石主税ら仲間九名と預けられた。
ちなみに、義理ある父親の弥兵衛は、内蔵助とともに肥後熊本の城主・細川越中守綱利の、高輪にある下屋敷に預けられている。
親子兄弟の浪士たちは、分けられたのである。
罪人であるにもかかわらず、松平家のものは安兵衛たちを歓待した。
「いやはや、忠義無類の面々を預かるというのは、名誉である」
はじめに落ち着いた愛宕の上屋敷から、安全のために三田の中屋敷に移る際は、上杉家の襲撃に備え、仰々しい警護のもとに、浪士十名、駕籠にて丁重に移動させたものだった。
立派な二間続きの広間に置かれ、膳部もごちそうが出て、安兵衛たちはいささか違和感を感じていた。
大石主税が風邪を引いた際も、松平家では医師よ薬よと勧めたが
「我々はいずれ天下の御法によって、泉下に赴きまする身の上。ご無用に願います」
と応じない。
安兵衛はこれを聴いて
「主税殿。病をお治しになってから、死を賜るのが、肝要かと」
と助言。
「なるほど。切腹を嫌うて病死するようで、卑怯未練というものか」
と、服薬を所望する。
こうしたやりとりを、いちいち係の者が
「さすが器量人…」
などと感服するのが、安兵衛には体中がこそばゆくなるようで仕方がなかった。
「これも天命」
のろま百人を相手にしても、びくともしないこの男が、楽々とした毎日において強く自分に言い聞かせるという皮肉な始末。
いつか懐に入れて気を紛らわしていた、あの三毛猫が恋しくなっていた。
幕府においては赤穂浪士の処分について、議論百出して容易に決まらなかったが、ようやく明くる年二月に、預けられていた諸大名の屋敷内にて「全員切腹」と決まった。
忠義一筋に駆け抜けてきた、堀部安兵衛の心中はまことに光風霽月。
当日、切腹の座に直ると、介錯人を振り返り
「ご介錯、ご苦労千万。冥土の土産に貴殿のご姓名をうかがいたい」
まさか、介錯しようという相手から話しかけられるとは思っても見なかった介錯人は、いささかうろたえた。
安兵衛の介錯を担当することを名誉に思っていて、ただでさえ舞い上がっていたので、なんとか心を落ち着かせようと心がけていたところだったのだ。
「それがし、伊予松山藩徒目付、荒川十太夫と主しまする。此度は有難き幸せ。大切に相務めまする。…堀部様のご高名は末代までも生き続けることでしょう」
「死んでも生き続ける、か。フフフ。されば、のろまになって戻って来んように、いざご介錯、よろしくお頼み申す」
と、慇懃に挨拶をすると、ニッコリ笑って背を向ける。
恐ろしいほど豪胆で、最後まで常に変わらぬ漢であった。
辞世を「梓弓(あずさゆみ) ためしにも引け 武士(もののふ)の 道は迷わぬ 跡と思はば」
と詠んで、悠々と刃(やいば)を受けた。
享年 三十四歳。
十六 大詰
幕府は吉良邸の検按で、被害状況に併せて邸内にのろまがいないことをたしかめると、そのまま吉良家を断絶した。
世間の浅野びいきにおもねて、将軍は四十六士に同情を宣明。
処置を名誉ある切腹として、前年の片落ちの裁定から世間の目を背けさせ、スッカリとていよく後始末を済ませたのである。
陰謀があったと一学が悔やんだ上杉家の、藩主・綱憲は、討ち入りの翌々年に死去。四十二歳であった。
その母、すなわち上杉家から出た上野介夫人・富子は、討ち入りのある以前に呉服橋の吉良邸を出て、白金の上杉邸で実母や娘と暮らしていたが、実子・綱憲と「同じ年」の夏に死去。
綱憲の実子で、吉良上野介の養子に迎えられた吉良義周は、後に幕府から「応戦の仕方が不届き」として、傷を負って闘ったにも関わらず領地召し上げの上、諏訪へ流罪となった。
幽閉を命ぜられた先で四年後、二十一歳の若い生涯を終えている。
吉良上野介関わりの人物が、討入事件のあとで、次々にこの世を去ったことは、なにかと世間のウワサとなったが、深い詮索は行われなかった。
かくして、こののろま騒動も、大物主神の御心から疫が起こったのだ。…と民衆は信じ、神の怒りが収まったから、事態も鎮静した。と、受け入れた。
幕府はろくな実態調査も行わず、世にも恐ろしいこの事件の記録は見えなくなり、やがて打ち忘れられてしまう。
サテ、これには、真相があると、諸書が言う怪説がある…。
実は、将軍その人こそが、小藩取り潰し政策に、まんまと呪術を利用した張本人とする説である。
祈祷が、のろまの思わぬ大きな効果を出してしまい、それを目の当たりにした将軍自体が、恐ろしくなって、粟を食って臭いものに蓋をしたという説…。
祟られているとされた将軍家こそが、実は騒動の遠因だったというのである。
呪いの後始末でも悪かったのか、討ち入りのそのあとも、綱吉政権下では、京都の大火や、二度に渡る各地の大地震が度重なり、浅間山や、富士山まで噴火し、散々に政道が脅かされた。
果たして将軍綱吉は祟られたのか、呪ったのか?
大衆は、すべてをなげうって忠義の念を貫いた、赤穂浅野の武士たちの辛苦を同情し、勇気をたたえ、四十六人を「赤穂義士」と言って、もてはやした。
劇作家たちはこぞって、一連の事件を題材に人形浄瑠璃や芝居にしようとしたが、幕府はそれを「幕政批判」という理由で、ことごとく上演を御指留め、それを徹底した。
公儀の目を盗むように作家の手から手へ、事件の内容を変えにかえ、もじりにもじって、めでたく千秋楽までやっと漕ぎ着けることが出来た作品は、人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」と言った。
将軍の代も変わった、事件から四十七年も後のことである。
〜おしまい〜
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〜解説〜
空前のパロディ小説。
「死んでも生き続ける」という落とし噺は、このブログに連載を始めてから、あとで思いついたコジツケでございました。
そもそも
この「ゾンビ忠臣蔵」は、かつて後輩何人かから(通算3組ぐらいから別口で)
「ゾンビの忠臣蔵なんて面白いじゃないですか。両方お好きなら、やれば。」
と、軽く言われて
「はあ?四十七士はこの世に未練なんか無いのだ。ゾンビになって醜態を晒すようなことが彼らにあるものかっ」
と、一蹴してたんですが、あるとき
「いや待てよ。吉良がゾンビならこりゃ、アリかな!?」と盛り上がり、このたび書くにいたった次第。
吉良=ゾンビ。だからみんなで殺そうとする。
これだけのポイントにウキウキして、デタラメをふくらませた次第。
ゾンビノンケの皆様方にはさぞかし苦痛(読んでくださっていたとしたら、です)だったことと存じます。(笑)
で、終わってみると、デタラメを作る初体験で、「ゾンビ」と「忠臣蔵」という突拍子もなく遠い二者を、意外にも、あることないこと、アレコレとつじつまを合わせるのが楽しかったです。
で、上記アイデアとは別に、もっと下品にゾンビを出しゃあよかったなと。意味もなくアチコチに。しょっちゅう。
「忠臣蔵(義士伝)ならこうでなくっちゃ」「ゾンビはそうこなくっちゃ」…を、優先させると、結局どちらも控えめになる。
清水一学を主人公にして、内部を探偵するミステリーに重点を置いてもおもしろかったかなー。
いや、赤穂側の、毛利小平太あたりが、不透明な部分に探りを入れまくって真相に近づいたところで殺されちゃうのも悪くない。
だから、スピン・オフ、やろうっかな〜。
ホリの腕っ節や、少年剣士たちの活躍とか、おもしろそうな。
他の少年&少女剣士とともに、ゾンビ相手に強くなる。それは漫画っぽいなと思ったが、…どんどん「鬼滅」っぽくなるから、よしましょう。
ご愛読をいただき、ありがとうございました!
もりい
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